11月2日・仙台市活動報告~まいこ~

今回初めてT4のボランティア活動に参加させていただいたまいこです。

元々私は震災数ヶ月後に別のボランティアグループの山元町のがれき撤去ボランティアに参加させていただいた事があったため、今回T4で山元町の仮設住宅での足湯ボランティアを募集していたのを知り参加を決めさせていただきました。

2日間の活動報告ということで今から書かせていただきますが、ブログを書き慣れないため写真も載せず、文章をまとめるのも苦手なため読みにくいかと思いますがお許しください。


まず2日は仙台市高砂市民センターにて震災当時館長をされ、現在は震災復興支援グループ「きぼう」を立ち上げ活動されている浅見健一さんからお話を伺う事ができました。

浅見さんは震災後、非指定避難所となった高砂市民センターでご自身の人脈・ネットワークを使い食料・物資の支援を全国から集められ、更にその支援物資を他の被災地へ回すための指揮もとられたいうともかくすごい方なのです。

現在は全国各地で講演活動をされたり幼稚園などにライフジャケットを寄付する活動をされているのですが、そんなお忙しい浅見さんがたった数名のボランティアメンバーのために何時間もお時間を割いて当時のお話を資料や映像を交えながらしてくださったり車で沿岸部まで案内してくださったことにまず私は驚きました。

きっと浅見さんは普段からどんな人とでも真摯に全力で向き合う方なんだろうなぁと感じました。そのため、浅見さんの周りにはどんどん人が集まってくるのだと思います。

それを証明するかのように浅見さんは行く先々で地元のみなさんから声をかけられていました。

あるお宅では浅見さんはおそらくちょっとご挨拶をするために立ち寄ったのだと思うのですが、その家のご主人が私たちを全員家の中に招き入れてくださり、更に震災当時から現在に至るまでの状況やお気持ちを話してくださいました。

奥様は急な来客にも関わらず、お菓子や珈琲やお茶や、自家製のお漬物(ものすごくおいしかった!)までふるまってくださり、これぞまさにおもてなしの心だね、とみんなで感激しきりでした。

本当にありがとうございました。

そのお宅も津波の被害に遭われ、一階部分はほとんど水に浸かり、大変な状況だったのだそうです。

津波のあとご近所の方々が家をあきらめて壊したりどこかへ引っ越していったあともコツコツとご自分の力で修繕し、住めるようになったとのこと。

外壁にはまだ当時津波が押し寄せた高さに水の跡が残っていましたが、屋内はとてもきれいになっていて、ご家族の暖かい写真がたくさん飾られていました。

とても住み心地の良さそうなお家でした。

せっかくここまでの状態になったにもかかわらず、この一帯は危険指定区域に入っているため、いずれは集団移転をしなければならないのだと、ご主人がとてもくやしそうにお話されていました。

また、ご主人は「仮設に入ると行政から援助が受けられるのに私たちみたいに自宅を修繕して住み続ける者には費用の援助が一切ない。不公平だ」と怒りを感じておられました。

震災から2年8ヶ月経っているにも関わらず、必要なところに必要な援助が届いていないのだと感じました。

ご主人が話された中で特に私が印象に残ったのは「震災直後はともかく家を住めるように直すことに必死だった。

直し終わった今の方が夜に不安で眠れなくなる」・・・という言葉でした。

時間が経過すれば自然に浅くなっていくような単純なものではない、とても複雑で深い心の傷を被災地の皆さんは負っておられるのだと痛感しました。

その後浅見さんが案内してくださった場所は宮城野区沿岸部の特に津波の被害が大きかった場所でした。

完全に更地になりススキが生い茂っているところもあれば、家の基礎部分だけが残っている場所、さらには津波を受けた後そこだけ時間が止まっているかのように屋内も荒れたまま残されている家もありました。

家主の方が津波で亡くなったりするなどで手がつけられず残ってしまっているのだそうです。

住んでいる人はごくわずかで、あとは工場や車などが時々あるだけでした。


小学校の跡地も見せてくださいました。

浅見さんから、ここに避難してきた多くの大人たち(特に女性)が再開を喜びあっている間に津波が来てしまい流されてしまったのだと聞きました。

そして大人たちが流されていくのを目の前で見てしまった多くの子供たちが今も心の傷に苦しんでいるのだそうです。


2日目は車で山元町に向かいいちご農園さんでのボランティアと仮設所での足湯ボランティアに分かれました。

私は足湯ボランティアに参加させていただきました。

仮設住宅での足湯は、多い時は順番待ちが出来てしまうほどの人気だそうです。

ただ、その日はちょうど文化の日だったため近くで文化祭があり、仮設のみなさんの多くはそちらに行かれていたようで足湯には午前に女性一人、午後男性一人の計2人が来てくださいました。

人数は少なかったですがお一人お一人とゆっくりお話ができたので良かったのではないかと思います。


一人目の女性の方は息を切らしてきて下さったためまずは足湯でゆっくりリラックスしていただきました。

足湯のあと、お茶とお菓子でテーブルを囲みながらお話をさせていただき、お身体の事や楽天の試合の事など話した後、ご家族の話をしていた中でお孫様を津波で亡くされたことを知りました。

笑顔がとても素敵で優しい雰囲気の方だったため、そのような辛い体験をしている事にとても驚き、胸が痛みました。


2人目の男性の方はとても気さくな方で、最初からたくさんお話してくださいました。

その方は震災直前までご入院されており退院直後に被災されたため、飲まなければいけないお薬などがなかなか手に入らず本当に困ったそうです。

また、被災前はお庭に畑があり、毎日畑をいじることで体を動かす事ができていたそうですが今は何もすることがなくて自宅にこもりがちになってしまうとのことでした。

でも最近は楽天の試合があるからそれが楽しみだよ~と話されるのを聞き(その日が日本シリーズ楽天VS巨人最終日だったのです)、ありきたりな言葉にはなってしまいますがやっぱりスポーツって本当に大きな力を持っているんだなあ・・・と感じずにはいられませんでした。


実際、宮城の皆さんは本当に日本シリーズで盛り上がっていて、行く先々の方とその話題になると明るい雰囲気が生まれました。

なんだか私たちも完全にその雰囲気とパワーを頂いてしまい、最終的には試合をやっているスタジアムまで行ってパブリックビューイングを観ながら宮城のみなさんと楽天の勝利を喜びあっていました。

ほんの二日間で本当にたくさんの貴重な体験をさせていただきました。


今回の活動で本当にいろいろな場所を見学させていただいたり、たくさんの方々のお話を聞かせていただきました。

その中で私が特に感じたことは、復興はまだ本当に道半ばだということ、そしてそんな状況の中で私は2年前ぐらいに一度だけ山元町に足を運んで以来、被災地とはほぼ無縁の生活をしてきたのだという事実でした。

仕事をしている間は仕事の事を考え、仕事が終わったら自分のための時間を過ごしていました。

実際に被災地に足を運ばないまでも、自分はどれだけ被災地の事を思い浮かべただろうか?と考えました。


震災直後あれだけメディアで流れていた被災地の情報も今は意識をしてキャッチしないと見つけられないのが現状です。

ありささんが車の中で「こんな状況なのに、どうして風化してしまうんだろう」と言われていましたが、そこに明らかに自分は加担していたのだと実感しました。

私たち一人一人ができることは本当に小さな事かもしれないけれど、どんな事でもいいのだと今は思います。

行ける人は被災地に行けばいいし、行けなければ募金や寄付をしたり、被災地の事を思ったり、誰かと話すだけでもいい。

自分を含め、何も思わない・考えない事が一番怖い事だと感じました。


今回T4メンバーや浅見さん、仮設の方々、いちご農園さん、梅鉢の人々など本当に沢山の素敵な人との出会いがありました。

このつながりを大切にし、自分にできることを考えながら1歩1歩進んでいきたいと思いました。

本当にみなさんありがとうございました。

更新が遅くなってしまいすみませんでした。
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11月活動報告~えーちゃん~

今回の活動は2日に高砂復興支援センターの所長だった浅見健一さんという人の勉強会に参加し、3日に前回も行った県内の仮設住宅を回るという日程でした。

往路はメンバーの車に相乗りさせてもらいましたが、朝6時半に新取手を出発するというので4時に起きて始発電車で集合場所に向かいました。

普段も仕事に行く時は5時半頃の電車なので早起きには慣れているものの、この時間はさすがに初めてでした

道路は空いていて、12時過ぎには宮城県入り。そこで早めの昼食をとって高砂復興支援センターに到着。

以下他のメンバーと同じような写真になってしまいますが、独自視点て撮った写真を載せるのでしばしお付き合いください。

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センター近くの橋より。高さは10m以上あるものの、浅見さんの話によると震災当日はこの橋の橋脚の高さぎりぎりの所まで津波が襲ったらしいです。

現在のこの場所にはあまり津波のこん跡は残っていませんが、当日の映像を見せてもらうと本当にぎりぎりのところまで水が来ていたのが分かりました。

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更に沿岸部へ進むと、小学校跡地だというところへ案内されました。

ここでは一度学校の屋上へ避難したのに、友達や知り合いを迎えに降りて行った女性が大勢犠牲になったらしく、既に校舎は解体されています。

「津波てんでんこ」という言葉があります。

津波が来たら他人になど構うな。

生き残りたければ散り散りになっても自分一人で逃げろ。という意味です。

実際にそれを実行した人は多く助かっているようですが、流される人を見てしまうとそれがトラウマになっていることも多いと思われます。

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建設ラッシュの象徴とも言えるリープヘルの「トンボクレーン」が林立するこの場所は、大型の下水処理場が建設されています。

この処理場が完成すると、排熱を利用して温室栽培を行うモデル事業が始まることが決まっているそうです。

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北側は仙台港。

このあたりは瓦礫も片付き、だんだんと具体的な復興事業の見通しが立ってきたように見えます。

左側には製鉄所の電炉があります。


この日は前回もお世話になったゲストハウス梅鉢に宿泊しましたが、4時起きと勉強会の疲れによりすぐ寝てしまいました。


二日目は以前もお世話になった仮設住宅の集会所で足湯の活動を行ったものの、なかなか人が来てくれません。

この日は文化の日だったため、公民館でイベントが開かれて皆そちらへ足を運んでいたようでした。

ちょうどイベントの時間が我々の活動時間と重なったため、こちらへはあまり来てもらえなかったようです。

ただ今回はあまり忙しくなかったため、来てくれた人とはじっくりお話できたのが良かった点です。

子供が来てくれた時のために落書きや折り紙ができるように部屋を用意していたのが活用できなかったのが残念なところでした。


個人的な感想としては、「被災地の綺麗事では済まない事」が今回の活動でずいぶん見えてきました。

報道では専ら美談や慈善活動の話ばかりが取り上げられますが、現実の被災地はそのような美談ばかりではありません。

むしろ人間の現金な姿が露骨に表れる、ドロドロしたことが現実に起きています。

しかしそういう話は現地で直に聴かないと知る機会がないし、実感もしません。

ただ浅見さんの人柄からも分かるように、現地の人との信頼は何よりも強い武器となります。

被災地には色々な力が働き、本来できるはずの活動が妨げられたりもしますが、どんな力が働こうが現地の人に信頼されていることは覆せないのです。


で、最後は楽天の試合を観に行きましたが、それは他メンバーに譲ります。

ここで特筆するとすれば、他の人が熱くなればなるほど自分は冷静になってゆくんだということを実感したことくらいです。

仙台市での再会&もう一つの仙台市~2013年11月2日~

それは、2012年3月上旬のことでした。

海外青年協力隊でケニア・マリンディに赴任している、Facebook友達の岸さんから、日本とケニア・マリンディの児童厚生施設をスカイプ中継でつないで、オンタイムで、東日本大震災から1年の節目に「双方向哀悼会」を開催できないものかという話になりました。


東日本大震災から1年 浅見健一さんのメッセージはここをクリック(横向きですみません)

その時のケニアの様子はここをクリック


高砂市民センターの雰囲気はここをクリック


それまでの宮城県各地や福島県の町のT4での活動で「1年目は静かに過ごしたい」という声を非常に多く聞いてきたので、果たして実現可能かどうかをとにかく吟味しました。

T4の活動ポイントになっている地区は候補から外す。

では、T4の活動ポイントにはなっていないけれども、比較的、町全体が落ち着きを見せているのはどこになるのか?

田舎町が候補から外れていったことは想像にたやすいと思います。

いくつか候補の町はありましたが、人と人とのコミュニティが良くなるところに重きを置き。

いつもT4がステイさせていただく仙台市の宿のオーナーに相談。

若いオーナーは、町のコミュニティが少しでも良くなるようにと尽力されていたりしたこともあって、東日本大震災直後「非指定避難所」とならざるを得ず、行政から早急な支援を受けられないまま避難所として発進した「仙台市高砂市民センター」の旧浅見健一館長さんを紹介していただきました。

当時、日本に住む誰もが、小学校・中学校・体育館といった公的施設でまかなえないほどの被害が発生する大規模災害を想定していませんでした。

仙台市高砂市民センターさんは、行政が指定していた公的避難所に該当しなかったため、未曽有の被害を出した東日本大震災直後に、1200人以上の方々が避難に訪れても「公的支援」を受けることが出来ませんでした。

毛布、衣類、飲食料・・・そういったすべての支援を受けることが出来なかったのですね=行政や国が柔軟に対応できるノウハウが当時はなかったのです。

では、1200人以上の方々に「ここは公的避難所ではないから帰ってください」と、あの時、誰が言うことが出来たでしょうか。

旧館長だった浅見さんは「自分の命に代えてもみなさんをお守りします!」1200人以上の方々の前で、こう宣言されました。

先日の再会で「なぁんで、あんな責任重大なこと言ったんだろうなー(苦笑)。今考えても、よくわからんのだよ(笑)」とおっしゃっていました。

無責任で結果オーライだったという雰囲気は微塵もなく、逆に、大役を果たすことが出来たのは「協力してくれた全国各地の方々と避難していたみんなの協力のおかげだから」といった謙虚さや真摯さを感じさせるつぶやきでした。

わたしは、震災から2週間後に、資格者であることやボランティア経験が長かったことなどとリクエストがマッチしたので、公的避難所の高齢者の方々のお手伝いに伺うことがありました。

公的避難所は小学校でしたが、保健室の先生が、みなさんの頼りだったことが非常に印象強く残っています。

飲食は国から届いていましたが、毎日変わり映えしない保存のきくメニューだったため、食事制限のある方々は不安を強く持っていたことや、電気もまだ戻らない中、食すら楽しむことも出来ず、自宅は黄色旗や赤旗が貼られてしまったため薬を取りにいくことも出来ない不安の中で、本当に手を握ってくれる人たちが必要でした。

「県外から来たボランティアなんて嫌だわ!!!何しに来たのよ!!!わたしは県外ボランティアさんなんかに気を遣うつもりなんてないから!!!」そう言われたことも一度や二度ではなかったですね。

でも、それで正しいのです。

思っていることを、八つ当たりでもいいから言えること、言える相手がいることが、きっといつか何か良い方向に向かったはずです。

じっと耐えて耐えて苦しんでばかりいては、長い将来、良くないですからね。

浅見さんが運営された私設避難所は、集まったみんなが、当番を必ず何かすること・喫煙は敷地内ではしないこと・仕切りを作らないことがルールでした。

仕切りを作らないというのは、消防出身だった浅見さんだからこその発案です。

人の命を守ることと、プライバシーを守ること、どちらが大切か。

狭い避難所では、高齢者の方々は寝たきり・動かなさすぎになりがちです。

そうしていると、血栓が出来てしまい、心臓他に飛んでしまい、最悪、死に至ることがあります。

プライバシー、プライバシー、プライバシー・・・あの頃、本当に報道で避難所の様子が映るたびに言われていましたが。

仕切りを作って、プライバシーに配慮した避難所もありましたが。

浅見さんの避難所では、一貫して「仕切りをつくらない」ことにより、血栓が飛んでしまった方の発見が非常に早期に行われ、早期に救急搬送されたため、大事に至ることはありませんでした。

かたや、他市の公的避難所にいて、他県からかけつけた災害派遣ドクターの往診で「今すぐ救急搬送」を言いわたされ「どうして?自分はこんなに元気なのに?」と災害派遣ドクターを疑いながら救急車に乗っていると、どんどん具合が悪くなり意識もなくなり、後で、血栓が飛んでいて危ないところだったと搬送された病院の先生から聞いたという方にも出会いました。

あの時のお医者さんに、本当にありがとうと言いたい、あの時お医者さんがああしてくれなかったらわたしは死んでいた・・・号泣されていました。

蛇の道は蛇。

今後の「避難所」のあり方が、果たして、国が基準としているもののままで良いのかどうか、もう少し工夫をし直してみる必要があるように思います。

ドクターや消防・救急の意見がどこまで反映されているのか、不安材料が残ります。

ある避難所で、着替えボックスを見ました。

そういったものを利用することによって、着替え時の配慮は出来ることでしょう。

子どもたちの勉強部屋を時間帯を決めて設けている避難所もありました。

あとは、人命優先・衛生優先であったりしてもよいように感じます。

工夫さえすれば出来ないことではないのではないでしょうか。

浅見さんの私設避難所では、みんなで当番制とか、敷地内禁煙、仕切りを作らないといったルールを守れない方には、他の避難所を紹介し、申し訳ないけれどもと一貫して移転していただいたそうです。

そうして、みんなで、毛布や市民センターの幕を使って暖を取り、譲り合い、足りないものは浅見さんの「人的コミュニティー」と「地場の企業さんへの声掛け」で集めることが出来ました。

それだけではなく、この避難所が落ち着いた後は、他市町村の避難所にも物資を分けて助け合ったそうです。

1日3食、カレーライスなどのしっかりした食事をとることも出来ました。

公的避難所とは大きな違いです。

「何が命にとって大切なことなのか」

それを追求するためのルールと、ルールを守るみんな、浅見さんの人望や地場でのコミュニティの強靭さが、1200名以上の方々の命を守ったのですね。

浅見さんが決して優遇されていたとかではありません。

彼も、親族や地元仙台市や近辺での仲間たち50人以上の方々を津波で失いました。

自宅も津波で被害に遭いました。

「自分も被災者なんだから」なんて決して言わず「町のみんなの命を守るんだ」それしか彼の心のど真ん中にはありませんでした。

わたしたちは、東日本大震災から何を学ぶべきだったろうか。

ボランティアセンターのあり方でもなく、ボランティアの一元化???とかよくわからないことでもなく。


災害時に、どれだけ、地場のみんなで、家族で、思いやり、助け合い、みんなでお互いの命を守れるか


ではなかったのだろうか。


東日本大震災で被災された方々にお話を聞いてみると。


何か起きた時に、家族と連絡が取れなくなったらどうするのか?をよく話し合っておいてほしい


地場のことは地場の人にしかわからないこともある、地場の企業と地場の高齢者、若い世代、子どもたちみんなで、これからのことを考えていかなくては



そんな言葉が数多く聞かれます。

ボランティアにああしてほしい、こうしてほしいといった細かいリクエストは今はもうなくて。

でも、全国のみなさんに「家族を大切にすること」を伝えたい・地場のみんなで協力し合う姿勢を模索しながら大切にすることを伝え継いでいきたい

のですね。

地場のみんなだけでは少し足りないなといったところ・・・たとえば、今、浅見さんが全国各地・海外からも講演会や取材で日々のスケジュールがいっぱいな中、沿岸部で地震などがおこる可能性のある地区に救命胴衣(子ども用)を寄贈するなどの活動を、全国の心ある企業さんやボランティアさんにお手伝いいただけないか?というような・・・ところをお手伝い出来るような「わたしたち」でいる必要があるように感じました。


震災からしばらくして、出逢ったある方がこうおっしゃられたことを今も忘れることが出来ません。


「ボランティアさん?

それともテレビ局?

よくわからない金儲けの人かね?

災害が起きるのを待っていましたと言わんばかりに来る。

そして、次の災害が来るのをまるで待っているかのような言葉も耳にする。

向こうにはそんな気がないのかもしれんが、2次災害とかやらのためにとかね、俺たちだってわかっててどうしようって考えているのにな、よその人からああでもないこうでもない、親しげに言われてな、本当は、もう嫌なんだよ。

ボランティアたちがここで暮らしていくわけじゃない。

俺たちが暮らしていくんだよ、辛くったってさ。

ボランティアなんかいなくたって、この町は復興するんだから!」



わたしたちボランティアには踏み入ってはいけな領域があることを、決して忘れてはいけないと思い出させてくれた浅見さんとの再会でした。


浅見さんとの具体的な1日は、メンバーたちが報告や感想を書いてくれると思うので、わたしからは、こんな感じで大局的に東日本大震災から学ぶことを少し書かせていただきました。


どんな様子だったのかだけ、まずは簡単に写真で綴ってみたいと思います。


浅見さん1


この川を津波が逆流・越水し、仙台市内の被害が大きくなりました


七北田川1


橋の下です。ここは津波の水の高さが人の身長よりも上回りました。


オーナーから学ぶ


ここには小学校があり、津波警報を聞いたみなさんが避難していました。


小学校1


ほとんどの方々は命を落とされることなく2Fや屋上に避難していましたが。

命を落とされた方々は。

「あー!〇〇ちゃんママだわーーー!!!」

「△△ちゃんママ!!!今、下に迎えに行くから待っててね!!!」

ここのタイムロスが辛い辛い結果になってしまったのだそうです。

「どうか、〇〇ちゃんママ!△△ちゃんママ!と知り合いを見つけたら、下に迎えに行ったり、上にいるお友達を待ってホッとしたりせずに、とにもかくにも上に上がるような言葉掛をお互いにしてほしい」

浅見さんが、そうおっしゃられていました。


小学校2


蒲生周辺2


わたしやT4が2011年5月にボランティアにお伺いした地区です。

仙台市沿岸部は、復旧工事が早くから始まったので、一般ボランティアが入ることが出来なくなっている箇所がほとんど。

浅見さんにご案内していただけなければ、どうなっただろうかと心配し続けていたと思います。

あれから変わらない風景も目の当たりにしましたが、ちゃんと理由がありました。


蒲生周辺1


査定を待っているんですね。

復旧や復興が遅れているということでは決してない。

津波被害に遭遇した土地では「今後、住めるのか否か」を住民と行政の根気強い話し合いなどによって継続的に行われたりしています。

その結果を待って・・・という家主さんや地主さんも少なくないためといった意味があるんですね。

あの頃のままだと悲しむだけではいけません。

「どうしてそうなっているのかな?」と考え、「地場の方から教わること」がとても大切です。


蒲生周辺3


蒲生周辺4


元々は生活用品他であったものも、分別されています。

少しではあるかもしれませんが、こうして、1歩ずつ復旧や復興は進んでいます。


蒲生周辺5


日和山・・・残念ながら、津波被害の為、山がなくなってしまいました。


日和山1


2ヶ所に防潮堤を作っている最中だと浅見さんが教えてくださっています。


日和山3


日和山2


わかるでしょうか?屋根に近い壁(白)に茶色の横線があります。ここが、津波到達した高さです。


我妻邸 津波到達線


Wさんのお宅は1階が津波で浸水被害に遭いました。

浅見さんが屋根瓦を直してくれたり、浅見さん・Wさんの地域の仲間たちがみんなで修繕に駆けつけてくれたりしたそうです。

廊下のクッションフロアは、浅見さんが協力してくれたとのこと。

あとは、とにかくWさんがひたすらコツコツとがんばられたのだそうです。

津波被害に遭われたとは思えない復活ぶりです!


地域コミュニティで復旧した我妻邸


我妻さん


我妻さん2


1階も住めるようになり、居間には、たくさんの「家族の笑顔の写真」が所狭しと並んでいました。

Wさんの奥さんが楽しんでいらっしゃるようです。

しかしながら、「危険指定区域」の認定を受けて、このお宅から、近からず遠からず離れなくてはいけないとのこと。


我妻さん奥さま


あの日、生まれて1ヶ月だったひーくんも、2歳半を過ぎてプラレールが大好き!

ひーくんが「のぞみ」や「こまち」で遊んでいるお部屋には、先祖代々のみなさまのお写真が並びます。

Wさんの本家なのですね。

先祖代々の本家だから、これしきのことで!とWさんがひたすら地道にコツコツと修繕されたこのお宅に住めなくなってしまう。。。

きっと先祖代々のみなさんは許してくれると思いますが、Wさんのお気持ちはいかばかりかと思うと。。。

ひーくんの無邪気さと天真爛漫さが灯りをともしてくれるようです。


ひかるくん1


ひかるくん2


ひーくんも「あちゃみちゃん♪あちゃみちゃん♪」と言うほど、浅見さんのことが大好き!

みんなで記念に撮影しました。

少しぼやけてしまったのですが、みんなに、これからも良いことがありますように☆


みんなで1


宿についてからは、近所のみなさんや、宿泊客のみなさん、わたしたち、オーナーやスタッフさんたちと一緒に。

楽天応援大会!!!

Wさんも浅見さんも、みんな、楽天優勝をワクワクドキドキ楽しみにされていました!!!

みんなで楽しもう!!!

お家を失わなかった人が遠慮する必要がない。

仕事を失わなかった人も遠慮する必要がない。

仮設住宅で夏は暑く冬は寒い生活をしているみんなも大手をふるって楽しんでいい。

そんな機会が、震災後、本当に少なかったと思う。

みんなで一緒にこんなに楽しめるって、本当にかけがえのない素敵なことですね☆

「スポーツの力」の大きさの凄さを、本当に心からひしひしと感じたのでありました。


みんなで2

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